【飯田みちるさんプロフィール】
1993年 手織り布と出会い、国立の「はんの木工房」で織りを学び始める
2000年 織りの楽しさを伝えたいと「織工房Mai」(草木染め、手織りの教室)を開設 現在に至る
前後してラオスに織りの研修と見学旅行に参加
2001年探していた透ける布を織る方法としてもじり織りを知り、文化学院アーツ&クラフツセンターで
畑中千恵子氏に師事
翌年 渡邊万知子氏から絣織りを学ぶ
京都の日本海側で丹後藤織り保存会の講習を受講し その後保存会に入会
2001年 技術や情報が足りないと感じて京都芸術大学通信教育部染織コースで学ぶ
2017年、2018年、2019年 カンボジアの農村地域で女性の経済的自立を支援するワークショップ
カンボジアコットンクラブでボランティアとして織りを教える
染織を始める前はどのようなお仕事をされていたのですか。
−飯田さん
大学を卒業した後、公益財団法人ユネスコ・アジア文化センターに勤務しました。アジア太平洋地域の教育や文化の振興、および交流の促進・支援など多岐にわたる活動をしている組織です。
同センターを退職し結婚後、義父が設立した社会人セミナー三輪学苑で十数年に渡り事務局をしていました。
その後、どのようにして染織と関わることになったのでしょうか。
−飯田さん
私たち夫婦に子供ができる可能性が低いということがわかりました。
後は自然に任せようと夫婦で決めましたが何か足りない気がしました。
母が教えてくれたように次の世代に自分の味や文化を伝えていきたいと思っていたので。
その頃から、何か形にすることをしてみたいなと思い始めました。たまたま織の個展を見て「面白いな」と思いました。それがきっかけで、その個展をされていた「はんの木工房」の安田英子先生の元で織の勉強を始めました。
私は物覚えの悪い生徒でのみこむまでに人一倍時間がかかりましたし、間違いもたくさんしました。
織物って制約がたくさんありますよね。その制約の中で形にしてくという面白さがあって、どんどんのめり込んでしまいました。その面白さは20年以上織を続けている今でも感じています。
その後、織教室をはじめることになるのですね。
習う方から教える方へ、どのようなきっかけがあったのでしょうか。
−飯田さん
「はんの木工房」の安田先生がとても楽しそうに教室をされていました。私はもともと人に何かを教えることが好きだったので、私も教えることをして行きたいと先生に伝えたら教室のアシスタントにしてくださいました。
先生には私は人より多くの失敗をしているので良い先生になれると言っていただきました。初心者クラスを2年ほど担当させていただいて、独立する形になりました。
いよいよ織り教室のスタートです。
教室名になっている「Mai」にはどのような由来があるのですか。
−飯田さん
2000年の教室の立ち上げと前後して織の研修と見学でラオスに行きました。
それまでアジアには行ったことがなかったのですが、ラオスやそこで作られている織物の魅力にすっかり魅了されてしまいました。
当時は絹に興味があったので、迷うことなくラオ語で「絹」を意味する「mai」と名付けました。正確なスペルではないと思いますが…。
「織工房 Mai」は現在の工房の隣にある1Kのアパートの1室でスタートしました。熊倉機料の織り機2台、たすく織り1台、大忠式手織機の卓上機1台、合計4台を置いていました。
その後、指圧師の夫の開業で入れ替わる形で自宅のリビングへ移転しました。
現在は自宅の11畳ほどのリビングが織工房です。織り機は13台置いていて、スペースを工夫しながらやっています。
一番最近迎え入れた織り機は熊倉機料の中古のX機2台で他の織り機とともに次の方にお渡し出来るまでお預かりしています。
20年以上工房をやっているので、購入した織り機の年代もメーカーも様々です。時々古い機織にも機掛けして使ってみて様子を見るようにしています。
教室をはじめた時、最初はどのようにして生徒さんを集めたのですか。
−飯田さん
一番はじめに来た方は「はんの木工房」の安田先生からご紹介いただいた方でした。
最初から順調に生徒さんが来るはずもなかったので、まずは教室を立ち上げるとともに生活クラブ生協の国立支部の中に手織りのサークルを作りました。リジット機で月1回織るというクラスです。
その後、機屋さんのWebサイトに教室の紹介を掲載してくれるところがあって、そこに教室の情報を掲載しました。そこを見て次第に生徒さんが通ってくれるようになり、現在は十数名の方が在籍しています。
たくさんの生徒さんが通われているようですが、どのように織り機を振り分けているのでしょうか。
また、経糸はどのようにしているのですか。
−飯田さん
生徒さんが織りたいものと、習熟度によってどの織り機で織るかを決めています。
教室のある日は朝起きたら今日は誰がどの織り機を使うのかを確認して、どこにどのようにどの織り機を配置するのかというところから始まります。時々間違えてしまうこともあります。
うちの織り機は全て経糸をかけたままでしまえるようになっているので、経糸をかけたら織り上がるまでその人の専用の織り機になります。
この教室の特色でもあるのですが、様々な理由でお休みされる方がいても来られる時にくればいいよというスタンスです。ただし、高機に糸をかけたら月3回以上、折りたたみの機にかけたら月2回以上は来ることというのをルールにしています。
それから、教室展を2年に1回開催しています。最近では2023年の5月に国立で開催しました。
教室をお休みしている方も出展したり、遊びに来たりして賑わいました。
「教える」についてもう一つ伺いたいのですが、飯田さんのプロフィールでも目を引く
カンボジアでの織りを教えるボランティアについてお聞かせいただけますか。
−飯田さん
ご縁があって古澤敦さんというカンボジアコットンクラブという活動をしている日本人の方と知り合いました。
カンボジアコットンクラブでは、内戦の際地雷が多数あったため使用できなかった農地を再生し、収入に結びつけるため化学薬品を一切使用しないコットンを栽培することを農家に推奨し、綿糸を作ります。
日本の近代的技術であり、女性でも簡単に整備できる機械、ガラ紡機を豊橋の保存会の有志の方の手を借りて現地に設置しています。
現地で作った糸を草木染めにしていると知り、草木染めのやり方をネット上でアドバイスしたことからお付き合いが始まりました。
その後、カンボジアコットンクラブの糸が魅力的だったのでロットが大きかったのですが購入し、初めてのガラ坊糸の日本での大量購入者となりました。さらに活動に賛同したので寄付をしたいと伝えたところ、「寄付はいらないから現地の女性に織りを教えてに来てよ」と請われ、合計4回(2017年6月、11月、2018年3月、2019年12月)自費で現地に渡りました。
※★の写真提供:飯田みちるさん
初回は下見に行ったつもりでしたが、現地の織り機の状態が良くなかったので着いたその日から織り機の整備を行いました。
布地に模様があった方が日本のお客さんたちに選んでいただけると思い、空気を多く含んだ糸に合うワッフル織り(4枚綜絖)と網代織り(リジット機)を伝授しました。
コロナ禍には「飯田先生は大丈夫か」と生徒が言っていると関係者からメールで連絡をもらいました。心配してくれていたのですね。嬉しかったです。
◉カンボジアコットンクラブでは糸を地元の草木で染め織物として付加価値を付けて製品化し、豊橋を中心に日本でも販売会をしてカンボジアの現在を知ってもらう活動を進めています。
現在糸を作る際に出るくず綿を紙にすいて、亜麻仁油などを塗り強度を出してSDGsのコットンレザーのバッグなどの開発中。
オンラインでの販売も再開待ちです。
【カンボジアコットンクラブHP】
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様々な活動をされている飯田さんのお話は後編へ続きます。
後編では飯田さんの作家活動について伺います。
[取材・撮影]: 遠藤ちえ / 遠藤写真事務所 @chie3endo